武家の宿命(さだめ)~竹千代来駿記~

   序

 

 男は狭い室内で座禅を組んでいた。

  書院造りの室内、古びた文机、違い棚に置かれているのは書物。置ききれないものは床に整頓されているが膨大な数のため、さほど広くない室内に主の如く居座っているように感じられる。

 人として成熟した顔立ちの双眸は閉じられ、何の感情も読み取れない。完全なる結跏趺坐をかれこれ一刻ほど保っていた。

 男は何かある毎に座禅を組む。民政、外交、軍事行為など国内に問題が起きると決まって離れの一室に籠る。始めの内はそんな主の行動に戸惑っていた家臣たちも、今では慣れてしまったのか火急の用が無い限りは近づかなくなっていた。

 幼き頃より僧になるべく寺に入り、兄達の死によって世俗へ戻るまで過ごした日々の習慣はしかし、彼の中に脈々と息づいていた。

男ーー駿河、遠州、そして三河半分を領する戦国大名・今川治部大輔義元ーーはあるひとりの人物の処遇について、思案をしていたのだった。

 話はひと月ほど前まで遡る。

 天文十八年霜月

 三河の安生城を攻撃していた太原雪斎からの使者が、府中の今川館に到着した。

 曰く、安生城城主・織田信広の生け捕りに成功。先に人質として駿河に赴く途中で織田方に拉致された松平竹千代との人質交換が成立した、との報せだった。

 松平家はかつては三河半分を席巻する勢いを見せていたのだが、先代当主の暗殺などもあり弱体化。今では今川家の庇護(ひご)を受けてようやく自立しているような状態であった。

 天文十八年弥生の月には、松平家当主の次郎三郎広忠が家臣に暗殺されるという事件が発生。拠点である岡崎城は城主不在という異例の事態となってしまった。

 義元はいち早く部下を岡崎城に送り込んで本丸を接収し、その支配下に置いた。しかし、その措置に反発する者が三河国内にいるのも事実。そこで広忠の嫡男・竹千代の身柄を織田方から取り返し、東三河の支配を円滑に行いたいという意図があった。

「当主亡き後、幼子を人質としてもどれほどの効果があるか。むしろ、直接支配した方が良いのではないか」

「竹千代を岡崎に渡してはかえって反乱の元にはなりはせんか?」

「その時は叩くまで。我々の戦力あれば、松平なんぞ一捻りだ」

「そなたは三河武士の強さを分かっておらん。正面からぶつかったら我らも危うい……」

「何を!我らを愚弄(ぐろう)するのか!」

「そうではない、慎重に事を運ぶべしと言いたいのだ」

 家臣の意見も割れている。

 もっとも彼らの意見はあまり当てにならない。今でこそこうして今川宗家に従っているが、先の家督相続に端を発する内乱の際には義元に敵対して戦った人間もいる。いつ、寝首をかかれるか分からないご時世である。油断はできない。

「決断は竹千代に直接会って後に殿が下す。今日はここまでとせよ」

義元の腹心・関口刑部少輔親永のひと言でその場は終わった。

 あれから日は過ぎ、天文十八年も暮れようとする頃に竹千代一行が駿河国に入ったという報せを受けた。

 竹千代とその配下、およそ十名程。明日にも府中に到着するようだ。

(あの弾正忠(だんじょうのじょう)が結果として殺さずに置いた少年、何かあるのか?)

 義元の疑問はその一点にあった。

 尾張国で今いちばん勢いがあり、かついちばん危険な男・織田弾正忠信秀がそこまで慈悲深い男とは聞いたことがない。義元の師であり兄弟子であり、片腕でもある太原雪斎からも類稀(たぐいまれ)な戦上手で経済にも明るいと言わしめた男。守護代の傍流でしかなかったのが短期間で勢力拡大した実績がそれを裏付けている。

 人の上に立つ、というのは慈悲深いだけでは領国を維持することはできない。どこかで非情にならなくてはいけない局面も出てくるものだ。それは義元自身が一番よく知っている。それだけに、気になった。

(やはり、直接会ってみないことには)

義元は目尻がややつりあがった両の目を開けた。ゆっくりと息を吸って、吐き出してからおもむろに立ち上がった。




   一

 天文十八年師走。

 今川館は年の瀬とは違う意味で、落ち着かない日を迎えた。

 常日頃から軍議などで使う広間に主だった家臣が集まる。ひそひそとあちこちで囁かれる会話。

(松平の小倅)

(今更人質として、何の用があるのか)

(父親同様、ひと思いに……)

 明らかに好意的ではない言葉ばかり。

 両側に今川家臣団がずらりと並んでいる中、真ん中にひとり座らされている少年・松平竹千代は正面の一点を見つめたまま表情ひとつ、眉すら動かすことなかった。

 ただ一度、父親・広忠を中傷するに至って膝に置かれた小さな両の手がきつく握られた以外は。

 と、ひそひそ話がぴたり、と止んだ。

 一段高い、この場でいちばん身分の高い者が座るであろう所に鮮やかな直垂(ひたたれ)を身にまとった男が優雅な身のこなしで座った。

 ひとつ余人と違う所があるとすれば、真っ白に塗りたくられた顔に丸い眉を描き、小さめに紅を引いた唇がちょこんと乗っている。都の公家がもれなく行っている化粧法だ。

 初めて見たであろう竹千代は視線が顔から離れられずにいた。凝視するなど非礼に当たるのは分かっているが、衝撃が大き過ぎて頭から礼儀が飛んでいってしまったようだ。

「御前である。控えるように」

 白塗り男の傍らに控える関口親永に言われ、ようやく我に返った竹千代は改めて深々と頭を下げた。

「松平次郎三郎の子、竹千代にございます」

 抑揚の少ない、ともすれば覇気がないと言われそうな声で告げる。しかし、あの公家顔からの動揺をすぐに収めたという意味では合格とも言えた。竹千代と同じ位の年の子であればもっとあからさまな反応をする。以前、相模から来た北条の少年は目の前で大笑いをしていたのを思い出す。

「大儀であった。後ほど案内する屋敷でゆるりと体を休めるがよい」

「有り難きお言葉、恐悦至極でございます」

 時折、扇で口元を隠しながら親永に何やらを告げ、それを竹千代に伝える。  竹千代もまた、丁寧な言葉遣いで応じ、年に似合わない大人びた印象を与えている。

 竹千代に何か失態があるようならすぐにでも口を挟もうと意気込んでいた家臣達が肩透かしを食らったような会談は、何事もなく終わった。

 竹千代は神尾久宗と名乗る男の案内で別室に控えていた配下の者たちと合流し、逗留する屋敷へ向かう事になった。

 目尻の切れ具合に強さを感じるが、ふっくらとした顔かたちに末席の身とは思えない所作の美しさ。あの会談の場にいた今川家臣の中でも浮いた印象を受ける。

 良くも悪くも戦場に身を置く者らしからぬ雰囲気を持っていた。

「気楽に五郎、と呼んでいただければ結構」

 初対面の、しかも八歳の少年に向かって気軽に呼べというのも少々変わっている。竹千代は一瞬、怪訝そうに久宗を見るが、柔和な笑みを崩すことはないため、反論は無意味と感じたようだ。

「お世話になります、五郎殿」

 そう言って丁寧に頭を下げた。

 今川館には柵や堀といった防御と呼べる設備は見当たらない。安倍川という大きな川が館のすぐ前を流れており、心地よいせせらぎを常に聴くことができる。

 しかし、中に一歩踏み込むと広大な敷地に建物が幾つも建てられている。会談を行った広間は元より、同様の大きさの部屋が続き、当主・義元とその家族の暮らす建物はもちろん、書院造の小部屋に茶会を開くための離れまであるという。

 趣向の高さは建物ばかりではない。

今、竹千代一行がいる廊下の前には大きな池の周囲に様々な草木を植えた庭が広がっている。今は季節柄、青々とした松の木が己の姿を見せつけているが、春になればいっせいに芽吹き、花を咲かせ、華麗な景色を見ることが出来るだろう。

「うわぁなにこれ、すごいなー!」

「……あまり目立つからきょろきょろするなよ、又五郎」

「与七郎だって、さっきまでぼけっとしてたじゃないか。おればっかりおこるなよ」

「そうではない。周囲に異常が無いか確認しているだけだ」

「へー」

「お前、信じてないな?」

「そんなことないよー」

 竹千代に随行した石川与七郎数正や天野又五郎らも、初めて観る景色に自分達の置かれた状況を忘れてきょろきょろと視線があちこちに飛んでしまっている有様だ。

 岡崎の城、と言っても竹千代の記憶も曖昧になりつつあるが、城自体が小さく、質素であった。庭だけでこれほどの規模は初めてである。

「御屋形様の母君は京の公家のご出身。都は先の大乱の影響で住みにくいとの由、母君のご縁もあって公家の方々がこちらに多数御出でになられます。遠路はるばるお越しになった方々へのおもてなしの気持ちでこのような庭を造られたのかと」

 竹千代は久宗に対して無言で頷いてから庭に視線を移した。

するとふらり、と体が前に揺れたかと思うと素足のまま庭へと降りて行くではないか。

 足の裏に土の冷たい感触を感じた。一歩踏み出すとチクチクと石が当たって痛む。しかし、一切顔には出さず、竹千代は池に向かってまっすぐに歩を進めていく……はずであった。

「竹千代殿」

 後ろから名を呼ばれると同時に左肩に何かが押し付けられた重みを感じ、そしてぐるりと体を反転させられた。

「ご、五郎殿?」

「そちらへ不用意に行かれては危ないですよ。何かありましたか?」

一瞬、竹千代の顔には怯えの色が走ったが、すぐに元に戻ってしまう。

「……なんでも、ありません……」

 久宗は竹千代を縁側に座らせ、池の水に浸して絞った手拭いで泥に汚れた足を拭ってやる。

「傷は出来てなさそうだな」

「もうしわけ、ございません」

「竹千代殿もまだまだ子ども、少々やんちゃでもいいではありませんか」

 怒ることなく笑顔を崩さない久宗に、竹千代は目を伏せた。そして右の人差し指を口に含んだ。かりかりと小さな音がする。爪を噛んでいるようだ。

「さて、参りましょう」

 何事も無かったかのように久宗は竹千代を促して立たせ、自分も縁側に腰を下ろして汚れた足を拭おうとする。

 しかし、竹千代の指が口から離れることはなく、かりかりと噛む音が止まない。両の瞳がやけに鋭くなっている。苛立っているのだろうか。

 久宗は、思わず竹千代の背中に手拭いを投げつけたい衝動に駆られたが、すぐに思い留まる。

(こんな幼子に対して、大人げないな)

 自嘲の笑みを浮かべつつ、久宗は竹千代の背中を追いかけるべく、立ち上がった。





   二

 竹千代と久宗が館の外へ出るのを待っていたかのように跪づいた老人の姿がそこにあった。

 小ざっぱりとした着物を着、頭は真っ白、顔は皺だらけ。だが、体に一本の芯が入っているような雰囲気を漂わせていた。

「弥太郎殿、ご苦労」

「御……お疲れ様でございます」

「こちらは松平竹千代殿だ。早速だが、彼らを我が家へお連れしたい」

「御意」

 弥太郎、と呼ばれた老人は竹千代一行に目をやると、にかっと笑う。右の頬にえくぼが出来て愛嬌がある。

「府中までようこそお越しくださいました。不肖(ふしょう)、この弥太郎がご案内いたします」

「よろしくお願いします!」

 真っ先に声をあげたのは又五郎だ。とにかくよく笑い、よく怒られる。考えるよりも体が先に出る、を地で行く少年だが、不思議と誰からも好かれていた。

「おい、又五郎!」

「あ……またやっちゃった?」

「よい、与七郎。弥太郎殿、よろしくお願いします」

 竹千代は又五郎を叱責しようとした与七郎を止め、深々と頭を下げてみせる。

「子どもは元気が何よりですぞ。これからは賑やかになりそうだ」

 弥太郎はますます嬉しそうに笑う。

「張り切り過ぎて弥太郎殿の方が疲れてしまいますぞ」

「まだまだ若い者には負けませぬ」

 久宗はこの矍鑠(かくしゃく)とした老人が好きなのだが、張り切り過ぎてしでかした失態が多いのも承知している。

 それでも、幼い竹千代には弥太郎のように何でも受け入れてくれる存在が必要なのではないか、と考えて随行させることにしたのだった。

「では、参りますか」

「儂は少し今宿で買い物をしたいから先に行っていてくれるか」

「買いものができるところがあるのですか!行きたい!」

 久宗の言葉に真っ先に反応したのは、やはり又五郎だった。すかさず与七郎は又五郎の脳天に拳骨(げんこつ)をお見舞いする。ごちん、といい音がした。

「痛いっ!」

「こら、又五郎!神尾殿は遊びに行くのではないのだぞ!」

「だって、与七郎……ここまで来るとちゅう、すっげぇにぎやかだったじゃないか。見てみたいんだよぉ……竹千代さま、いいですよね?行きたいよーおれー」

 又五郎に袖をがっちりと掴まれ、竹千代は深い溜息を漏らした。

「又五郎……神尾殿も弥太郎殿も困っているではないか。ここは三河ではないのだぞ!」

 与七郎はまだ又五郎に怒っている。

「まあまあそう怒らずとも。この年寄りもおりますから、少し位ならよろしいのではありませんか?」

 弥太郎の視線が久宗と竹千代に向いている。ふたりの了解を求めているのは明らかだ。

「儂は構わぬが、竹千代殿はいかがかな?」

 少しの沈黙の後、竹千代は首を縦に振った。喜びのあまり竹千代に抱きついた挙句、共に倒れることになった又五郎はまたしても与七郎から拳骨を食らう羽目となった。

 そんな微笑ましい光景を見ながら久宗は内心で又五郎と竹千代、同じ位の年と見ていたふたりの対照的な反応に違和感を覚えた。

 自分の息子もこの位の年ではもう少しあれこれ我儘を言っていたのを思い出す。

(大人に成らざるを得なかった、と言うことか)

 家のため、ひいては国のため。

 結果として早く大人になるよう求められた少年に、久宗は複雑な気持ちを抱いた。

 今川氏が駿河府中に拠点を構えたのは初代範国(のりくに)の頃。駿府という呼び名は略称であり、単に府中とも言う。

 府中の町は商人町としての本町、今宿、今川館から北西方向にある浅間神社の門前町、交通の要所たる伝馬町と住み分けされており、主だった重臣たちは館を取り巻くように屋敷を建て、居住している。そのため、買い物をするには今宿まで行くのが常であった。

 久宗に弥太郎、竹千代一行で歩いて今宿まで向かうが、何せ又五郎があっちへふらふら、こっちへふらふらし、その度に与七郎に引っ張られるため中々進まない。

 竹千代は黙々と歩いている。時折景色にも目をやるのだが、又五郎のように寄り道はしない。何を考えているのか、幼い顔からは読み取れない。

 そうこうしている内に一行は今宿へ入った。

 軒を連ねる店の数々。米や麦、野菜などの食べ物だけでなく、反物や陶器、鉄製品などの生活用品に加えて、朱の鮮やかな漆塗りの器といったものまで並んでいる。

 先代・氏輝の時代から商業政策に力を入れており、義元の代では更なる商業保護の政策が打ち出された。他国に比べて農業生産量が低いのを補って余りある繁栄をもたらしている事実を、この賑わいが証明していた。

 久宗は馴染みの皮革(ひかく)職人を見かけた。すかさず相手の腕を引き、話しかける。

「久しぶりだな」

「五郎様では御座いませんか。今の時期、館の中はお忙しいのではありませんか?」

「まあ、暮れだからなぁ……忙しいっちゃ忙しいが。今日は案内(あない)も兼ねてるのでね」

 そう言いながら久宗は竹千代一行に目を遣る。釣られて皮革職人も顔を向けた。

 又五郎はあちこちをのぞいてみたり、店の人とおしゃべりしたりと楽しそうにしている。与七郎はそんな又五郎に振り回され、他の者も珍しさからおのおの見たい店を物色していた。

 そんな一行の様子を竹千代は遠目から眺めており、自分からはあまり動こうとはしない。そして、ここでもまた、人差し指が口に行ってしまっている。  竹千代にとってはあまり楽しくはないようだ。ならば又五郎に懇願されても断れば良かったのに、と久宗は再び苛立ちを覚える。

「あれは……どちらの御子さんで?」

「三河だ、松平家の嫡男。と、言いたい所だが、父親が亡くなったから当主と呼ぶべきかもな」

「左様で。五郎様御自らご案内とは、また破格の扱いで御座いますな」

「いや、そのつもりは無かったんだが、その、流れでな」

 自分でも何で一行を案内する羽目になったのかよく分からない。あえて言えば子どもの勢いに負けた、と言うべきか。しかし、それはあまり口にしたくはない久宗であった。

「それで、今日はどの様なご用件で?」

「ちょっと革紐が切れてしまってな。新しいものを見繕ってくれないか」

「そうですか、お任せください!」

 職人は手早く商品を取り出して久宗に見せ始めた事で、久宗の意識から竹千代は抜けてしまった。

 同じ頃竹千代はというと、ふと目に入った刃物を売っている店に足を向けていた。

 店先にはよく研がれた刃物が並んでいる。小さいものから、鉈くらいの大きさまで様々だ。

 その中のひとつに竹千代の目に留まった。

 鈍色に光る刃(やいば)が竹千代に俺を持て、と誘い込む。引き寄せられるかのようにその内のひとつを手に取った。

 ひやり、と冷たさが掌に伝って脳を刺激する。不思議な感覚が竹千代の全身を駆け巡る。鋭い先端をまだ細い手首に押し当てようとしたその時。

「坊ちゃん、ひとりかい?親御さんは?」

 店の主人に話しかけられ、竹千代は我に返った。

 そして手にしていた刃を店先に戻し、走り出した。

「……何だったんだ、あの子?」

主人は首を捻りつつ、先程まで竹千代が持っていた刃を丁寧に布で拭き始めた。

「た、大変だー!」

 久宗が目的の皮細工を手にして店を後にした時、弥太郎が血相を変えて駆け寄ってくるのに出くわした。

「何があった、弥太郎殿?」

「竹千代殿が……竹千代殿が……」

「竹千代殿が、どうした?」

「居なくなってしまいました!」

 そこまで言うと弥太郎はその場にへたり込んでしまった。息の乱れが激しい。よほど慌てていたのが分かる。後ろから同じような状態の又五郎や与七郎ら竹千代の配下もやって来た。

「どういう事だ」

「私が迂闊(うかつ)でした……私に構わず見てくればいいと仰ったのでつい……」

「ごめんなさい……おれがわがままいったから……」

 与七郎が蒼白な顔で言えば、与七郎の横で又五郎は泣いている。

 大体の状況は飲み込めたが、さて、どう探したものか。

 久宗が顎に手を当てて思案をしていると、呼吸がやっと落ち着いた弥太郎が口を開いた。

「周囲を聞き込みしてみました所、向こうの刃物屋の主人が竹千代殿と同じ背格好の子を見た、と」

「そうか、何か言ってたか?」

「小刀を手にし、腕に当てようとしていたので声をかけたら逃げてしまったそうです」

「神尾殿……」

 全員が久宗の次の言葉を待っていた。

「弥太郎は皆を連れて先に屋敷へ行ってくれ。儂は竹千代殿を探す」

「御意」

「おれもいく!」

「気持ちは分かるが今度ばかりは無理だ。そなたまで迷ったら如何(いかが)する?」

 久宗の口調は穏やかだが厳しいひと言に又五郎は黙り込むしかなかった。

 久宗とて心当たりがある訳ではない。万が一人攫いにでも遭っていたら探し出すのはほぼ不可能だ。

 刃物屋の主人は刃を腕に当てようとした、と弥太郎は言っていた。久宗は今川館の庭での事を思い出す。そして、ひとつの可能性が脳裏に浮かんだ。地理に疎く、まして子どもの足だ。そう遠くへは行けないはず。

「間に合えばよいが……」

 久宗は、駆け出した。

 

 今宿の町は安倍川の本流がふたつに分かれた中にある。

 片方は町の中に流れ込んでおり、人目につきやすいので子どもがひとりでいれば騒ぎになるはず。だが、管理者に確認しても迷い子は居ないという。

 久宗は望みをかけてもう一方の本流を目指す。早まった事をしないことを祈りながら。

 町を抜け、川沿いを注視しつつ久宗は走る。

 日はゆったりと西に傾きはじめた。家路を急ぐ人とすれ違う。だが、久宗には竹千代を見たかなどと聞いている余裕はなかった。

 ぱしゃ。

 小さな水音が久宗の耳に届いた。足を止め、音のする方を注視する。

 小さな影が水辺に浮かび上がっているのが見えた。後ろ姿しか見えないが、 背格好、髪型は竹千代のものだった。

「竹千代!!」

 久宗は力を振り絞り、竹千代の元へと急ぐ。同時に声を張り上げて呼びかける。

 ぴくり、と竹千代の動きが止まった。久宗はなおも呼びかけ続ける。もはや人質とかどうでもよくなっていた。目の前で幼い命が消えてしまうのだけは嫌だった。

 竹千代は振り返り、久宗を見て呟く。

「……ちちうえ……」

 そして小さな体はその場に崩れ落ちていった。





    三

 竹千代は安倍川に吸い込まれる寸前に久宗によって助けられた。

事前に管理者へ声を掛けてあったのが幸いして、今宿の住人が用意してくれた馬に乗り、久宗は神尾邸まで竹千代を連れて帰ることが出来たのだった。

 久宗は先に屋敷で待っていた弥太郎や与七郎らに竹千代を見つけたと報告した。意識が戻ったとしても、何かあってはいけないからと薬師に一晩付き添って貰う旨も伝えてある。ここでも又五郎が会いたい、と泣いていたが結局は与七郎に止められた。

 朝から色々あり過ぎて疲れていたが、休みたいとは思えなかった。久宗はやむなく部屋の隅に立て掛けてあった弓を手に取った。呼吸を整え、静かに弦を引く。主の引く力に抗おうとする弦を制御する腕が震える。

 ぶんっ。

 溜まっていた力が一気に爆発し、弦が鳴る。もう一度、弦を引く。何度も弦を引く。

 しかし、頭の中は一向に静まらない。なぜだ、なぜ……。

 久宗が、何度目かの弦を引こうとした時。

「ぎゃあああ!」

 今度は何事か、と久宗は竹千代が休んでいた部屋に飛び込んだ、が。

 竹千代は床に伏していたが、双眸がこれ以上にない位に見開かれていた。

「意識が戻られたので、顔色を拝見しようとしました所、某(それがし)の顔を見るなり叫ばれまして……」

 久宗は薬師として付き添わせた男の顔をまじまじと見ながら大きな溜息を洩らした。

「その白塗り顔のせいだとは思わないのか、山根……」

「御屋形様が竹千代殿を抱えた状態で血相変えて戻られた故、変装を解く間もなく……」

 確かに心当たりはある。だが、竹千代は長い時間意識が戻らなかったのだから、顔を拭く位は出来たであろうに、と言おうとして止めた。今はそこに話を持っていく時ではない。

「儂のせいと言われてもなぁ……」

「御屋形様に御仕えして随分と経ちますが、あの様な御姿、初めて見まして御座います」

 あのう、とまだ起きられない竹千代の声にふたりは同時に視線を向けた。

「どういう、ことなのでしょうか」

「某(それがし)は御屋形様の影、簡単に言えば身替りのお役目を頂いている者。おっと名は聞いてくださるな。ざっと十ほど名があって、本当の自分の名をすっかり忘れてしまったのでございます」

 白塗りの顔から笑みがこぼれ、口からは白い歯が見えた。本来の公家であれば歯を鉄漿(かね)で黒く塗るもの。十の名を使い分けるのであれば鉄漿は不便でしかない。口の中を見られないよう、わざわざ伝言役が必要だったのだ。

「山根、着いて早々から悪かったな。報告は後で聞かせてもらおう」

 御意、と一礼した白塗り男はまだ衝撃から抜け出せぬ竹千代の半身を起こしてから、茶碗を差し出した。濃い緑色の液体が並々と入っており、湯気がほんのりと立っている。

 竹千代は一瞬動きが止まる。毒でも入っているのではないのか、と警戒しているようだ。

「竹千代殿に害があるものは入ってはおりませぬので、ご安心なされ」

 ずいっと差し出された茶碗を押し付けられた竹千代は、ちらり、と久宗の方を見たが、彼は笑顔のまま首肯する。

 内面の動揺を押し隠しながらひと口啜る。苦味の強い液体が口の中に広がり、同時に爽やかな新緑の香りも鼻から抜けていく。山根が旅の途中で手に入れた上等の茶葉なのだが、幼い竹千代にとっては体験したことのない苦味で、思わず顔が歪んだ。

「茶の湯は初めてか」

「最初はそのようなものでございます。何度かお飲みになれば良さが分かります」

 茶そのものはすでに古代から存在していたが、一部の人の楽しみ程度のものであった。鎌倉時代に大陸から禅宗と共に栽培方法が入ってきた事で禅宗を信仰する武士の間に徐々に広がっていくようになった。

 今でこそ駿河、遠州を支配する大名だが、義元は先々代当主・氏親の五男でしかなく、数えで十九の歳まで臨済宗の寺で修行を積んでいた身。其の間、師であり兄弟子でもある雪斎とともに上洛し、建仁寺派の寺で修行する傍ら文学や茶の湯にも触れる機会があった。

 茶の湯がもたらす影響を肌身で感じた彼は、時折、人を招いては茶会を開くようになったのだ。自ら茶を点てる事もあるが、なぜかあまり美味しくないらしい。親永に指摘されて以降、自粛している。

体が温まってきた頃合いを見て、久宗、もとい義元はは竹千代に向き合い、口を開いた。

「改めて自己紹介をしようか。儂がこの駿河を治める今川治部大輔だ。五郎、は当主の仮名(けみょう)でね。隠していたのは謝るが、こうでもしなければ見えない事も多いのでな」

「松平竹千代にございます。数々の無礼をお許しいただきたい」

「いや、謝罪は不要。儂も隠しだてしてきたのだ、お互い様であろう」

 神尾久宗は本来、あの弥太郎の名であった。

が、かなりの老齢であり、出仕をするのも骨が折れるとぼやいていたのを聞いた義元は、山根らとの繋ぎ場所として使う事を思いついたのだ。

 山根を身替りにしたのはほんのお遊びのつもりだったのだが、家臣達が面白いように騙されるためそのまま続けている。身替わりの秘密を知るのは雪斎と親永のみである。

 ある時義元が、いつ身替りと知れるか賭けをしようか、と親永に提案したら、そんな暇があったら政(まつりごと)を真面目にやれ、と怒られたという。

 それはまた、別の話。

 ところで、と久宗、ではなく義元が切り出す。

「なぜ、川に入った?」

 義元は真っ向から竹千代に問うた。

 竹千代は右の人差し指を口に含んだ。しかし、爪を噛む音は聞こえない。

 少しの間、沈黙が流れる。

「この地が、儂が、気に入らんか?」

「ちがう……」

 小さく首が横に振られた。だが、まだ足りない。言葉が、本心が。

「どう、違うのだ?」

「父上は、わたしをたすけてくれなかった。わたしは織田さまのおやくにも、今川さまのおやくにも、たてない」

 ここまで言って、また静寂が訪れた。小さな体が小刻みに震えている。俯いたまま、己の顔を見せまいとしている。そこまでしなければいけないのか、と義元の胸がちくり、と痛む。

 数えで八つ、まだまだ親の存在が欲しい年頃だ。しかし父は結果として息子を裏切った。あの弾正忠信秀が竹千代に直接伝えたとは思わないが、幼心に感じる所はあったのだろう。辛くなかったはずはないのだ。

「……わたしは……いきていて、いいのですか?」

 ぼろぼろと零す大粒の涙と共に、長い間秘めていた言葉を吐き出した竹千代。

 義元は立ち上がり、竹千代の後ろに回った。そして懐から小刀をを取り出し、竹千代の髪をまとめていた紐を切り落とす。はらり、と結い上げられていた髪が下ろされる。

 下ろされた髪の一房を義元は取り、小刀を当てる。ざくっ、という音と共に断ち切られた髪の房は床に落ちた。

「これで竹千代殿は一度、死に申した」

「……」

「今よりこの地で生まれ変わり、生きよ。生き延びるためには強くならなければいけない。たくさん学び、強くなれ。そして松平の家を守り抜くのだ」

「松平のいえを、まもる……?」

「それが武家の家に生まれたそなたの宿命だからだ。儂もそうだ。今川の家を守るために今、ここにおる」

 義元はそう言って小刀を鞘に納めた。我ながら巧くないやり方だと思う。

 これが師である雪斎であれば、言葉だけで竹千代に救いをもたらすことが出来たのかも知れない。だが、これが自分なのだと義元は己に言い聞かせた。

 竹千代はというと、床に落ちた自分の髪を両手で丁寧にすくい上げている。

「いかがしたか?」

「しんだのなら、おはかをつくらないと」

「そうか……儂はこれでも元法師だ。墓が出来たら経のひとつでも上げてやろう」

「えっ……?」

「驚いたろう?これでも色々あったのだ。いずれ折を見て話してやろうか、つまらぬ男の与太話としてな」

 自嘲の笑みを浮かべた義元を見上げる竹千代の目に、涙はもう残っていなかった。



  

  終

 夜も更けた頃、そのまま神尾邸に泊まった義元の元へ密かな客が来た。

「御屋形様」

「お師匠……」

「こちらと伺いましたので」

「親永が余計な事を言ったか?」

「いえ。山根殿から言伝(ことづて)を頂きました故」

 黒衣に身を包み、傘で顔を隠していても義元には一目で雪斎と分かった。

 今は義元が主で雪斎は家臣の立場なのだが還俗した後も昔の習慣が抜けず、師匠と呼んでしまう。

「松平の嫡子、いかがでしたかな?」

「中々面白い男子(おのこ)であった。親永に頼んで早急に空き家を修理させ、そちらへ移す。お師匠、竹千代の学問を助けよ」

「承知いたしました」

 雪斎は穏やかな笑みを浮かべつつ、ゆったりと頭を下げる。

「いずれは、我が子竜王丸の側に上げたいものだ」

「……殿、あくまで今川の先陣を担わせ、元服の暁には岡崎へ戻すのが肝要かと」

「まだ先の話だな。竹千代は八つだし、竜王丸は十二……」

「今川の版図拡大のためにも三河衆は味方にせねば成りません。何卒(なにとぞ)、竹千代の扱いは慎重に」

「分かっておる、少し先走っただけよ」

「ならばよろしいのですが」

 雪斎は、以前から義元にこそ信頼できる人材が必要だと感じていた。

家督相続の際、今川家内部が二つに割れて内乱にまで発展した。雪斎らの活躍によって義元が家督を相続し、結束したように見えるが、義元は本心から彼らを信用していない。

 山根のような人間を使って領国内を調査させたりしているのも、家臣たちの言動に不正がないかを確かめる意図がある。最初に勧めたのは雪斎だが、今では義元の方が積極的に利用している程だ。

 雪斎自身も老いを自覚するようになっていた。いつまで義元の側にいられるか分からない。せめて彼が信頼できるに足る人間を育てたい。

 雪斎は人質交換の際に初めて見た時から竹千代に未来を託せたら……と考えてはいた。しかし、今夜の義元の反応に一抹の不安を覚えた。

 義元が珍しく情に流されている。

 それこそ彼が芳菊丸(ほうきくまる)と呼ばれていた頃から見守って来た雪斎だからこそ感じ取れる変化だった。

こうして、義元にとっても竹千代にとっても長い一日が終わりを告げた。

竹千代は後に徳川家康と名乗り、長い苦難の末に泰平の世を築く事になる。

そんな家康が自らの隠居場所になぜ駿府を選んだのか。

現在に至っても未だ、謎のままである。

(終)


初出 2015年5月 文学フリマ東京にて頒布

伝奇小説アンソロジーありえない歴史教科書『日本史D』より(蒼井月季名義)



桜花帖

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